この子の笑顔を大切にするために

わが子に軽度障害があることがわかってから。普通級か支援級か、うちの子“普通”じゃないの?悩みながらの子育て&親育ちの思いの記録。

変わるべきは親

支援級に転籍して初めての夏休みです。

宿題は国語と算数のプリントがそれぞれ23~4枚ずつ。日記が2日分。普通級では1プリントの問題数がもっと多く、さらに毎日の一行日記と自由研究もあるようですが、思ったよりしっかり宿題が出ていて少し驚きました。

 

相変わらず漢字は四苦八苦していますが、算数はあまり嫌がらずむしろ自分で取り組めるようになってきました。これも自分にあった取り組みの中で自信がついてきた現れなのでしょう。

 

実は4月から、私自身が息子のことをより理解したいという思いから、発達に偏りを持つ子供達の支援について学ぶ講座に通っています。

ここで学び始めてから、変わるべきは親と周囲の大人達であること、子供が変わることを望む(「普通」になって欲しいと願ってしまう。でも「普通」って一体何なのでしょうね?)親の思いこそが子供を追い詰め 、ならなくていい二次障害の一番の原因となっていることに、だんだんと気づき始めました。

・・・いえ、気づき始めたのではなく、もうずっと前から理屈ではわかっていたのですが、心から納得できる転換期をやっと迎えることができた、というのが正しいと思います。

 

その講座は大学教授によるかなり専門性の高い内容を含む講義で、修了後は資格にも繋るものです。何より「学ぶことが武器になる」という先生の言葉が、一番その時の私に納得できるものでした。

 

我が子の状態はわかる、多分一番よくわかる。困っていることや問題行動もわかる。発達障害を持つ子供達は、不思議なくらいに母親と以心伝心な部分があります。

ただ、それにどういう意味があるのか、なぜそうなってしまうのかがわからないし、どうサポートするべきかがわからない。

そこで、なんとか自分の知る「普通」の行動に無理矢理「矯正」しようとする、それが何も学習していなかった時の私でした。

でもそれでは問題の根本解決には全くならないことが、講座で学習していくうちにわかってきたのです。

 

例えば、私達の脳には、周囲の物音の中から必要な音だけピックアップして聞き取り、雑音は排除できる機能が当たり前に備わっています。

しかし、脳の仕組みの違いにより発達に偏りがある子供の中には、周囲の物音全てがワァンといっぺんに同じボリュームで飛び込んで来たり、普通は聞こえない低周波や電波のような音まで全てひろってしまうために、大人数のクラスで先生が話している言葉をいくら聞き取ろうと思っても、聞き取ることが非常に困難であるケースが多く見られるというのです。

 

・・・これは実はうちの子には思いあたる節が大いにありました。

一対一ならわかる話が大人数の中だとわからない。お店などで明らかに電気管やエアコンなどの電波音に反応していた時期もありましたし、大きな音にものすごく過敏で恐怖心を持つ、子供の集団が大騒ぎしている中でたまに耳をふさぐことも。

 

我が子がこれだけたくさんのSOSを出していたにも関わらず、学習していなかった時期の私には、“なんで先生のお話を集中して聞けないんだろう、理解力が足りないのかしら、また耳なんかふさいで、どうしてみんなと楽しくやれないのかしら”、としか思えなかったのです。

 

物の見え方にも違いがあることを初めて知りました。一極集中のズームインレンズのような視野になりがちな子が多く、同じドアを見ていても、その子にはドアノブだけがバーンとズームアップされて見えて全体の形が捉えられない(言われて意識して見ないとそれが見えてこない)などなど。

 

これも思いあたるところだらけでした。電車大好きな我が子が幼稚園時に、1m以上の長い紙に電車の絵を描いたのですが、四角い窓をいくつか描いて、次に「Ⅱ」のような棒二本、また四角を数個、棒二本、をひたすら繰り返して描き、それから湘南新宿ラインの色と言ってオレンジと緑のラインを平筆で上と下に一直線に引いたのです。車体の枠も、車輪もありません。

 

なんじゃこりゃ?とあまりの抽象画っぷりに首をひねりましたが、本人いわく、窓と、二枚のドアが閉まった中央部であると!

絵画教室の先生に、なるほど~!そういう風に見えてるんだ!すごく面白い素敵な絵だね♪と褒められ、本人は満足気でしたが、あんなに好きな電車でも見た通りには描けないのか・・・、と内心思ってしまった私がいました。

でもむしろ、見えているそのままを息子は描いていたのでしょう。こう描くとそれらしく見える、という後付けの知識による絵ではない、貴重な絵だったのだと今ならわかります。

先生は本気で褒めて下さっていても、母親の内心のガッカリを、嫌になるほど敏感に我が子は拾い取ってしまうのです。

 

それは、目の見えない子に、頑張れば見えるはず!あなたの努力が足らない!と叱咤するのと同じくらい、無茶な要求であり本人の自己肯定感をどんどん下げていることに、その時の私は全く気付いていませんでした。

そう、変わるべきは親、私でした。

ひとりっ子であること

息子はひとりっ子です。すぐに二人目が授からなかったのもありますが、ある意味産まない選択をしたのに近い状況です。

 

結婚後半年過ぎに息子の妊娠がわかった時、主人がひどく精神的に不安定になりました。確かに二人きりでいられればそれでいいなどと夢見がちなことを言う人でしたが、てっきり喜んでくれると思っていた私は、ショックというより驚きと疑問だらけでした。小さい子供は好きそうなのに、なぜ??と。

 

後からわかりましたが、彼自身が生きにくさを感じるタイプで子供時代にもあまり楽しい思い出がなく、そんな辛い思いをさせるなら子供はなくていいと思っていたところへ、経済的な責任や自分が親になることへの戸惑いなどが一気に押し寄せたため、重圧に押し潰されたようです。

 

お腹の子と主人のメンタルの両方を心配しながら仕事(私の専門の音楽の仕事で楽しかったのですが)もする妊娠中の日々。産まれてみれば慣れない育児に疲れ果て、今考えると母親の勘で我が子に気になる点も出てきていたのでしょう、私自身に二人目を望む気持ちが全く湧かなかったのです。

 

障害があるならなおさら、助け合える兄弟が必要では?という考え方もあると思います。子育て中も「兄弟がいたらもっと違ったかもなぁ」と思うことが多々あります。

でも、私と主人それぞれの精神状態を考えあわせると、うちは息子一人でよかったのだ、と思うのです。

 

息子が最初に発達の遅れを疑われたのは、一歳半健診の時でした。その時は一ヶ月後の観察期間に問題なしとなったのですが、やっぱり何かある?という不安が強かった気がします。

その前から各種アレルギーがひどく、近場の小児科ではさじを投げられてしまい電車で国立病院に通う日々でした。生後四ヶ月からずっと小児アトピーとの闘い、離乳食が始まれば食物アレルギーも始まり、除去食と検査、減感作療法と検査、時期を見ての負荷試験の繰り返し。

そんな中、発達のめやすとして言われる首座り、寝がえり、ハイハイの時期や後追いの有無、全てが少しずつ遅いのに気付きました。

アレルギーに気を取られてやや過保護気味だった気もするし、初めての子育てで私の要領も悪かったのですが、何だか全てが思ってたのと違うなぁ、うまくいってないなぁ、みんなこんなものなのかなぁ?と、今考えると育児に悩むというよりは違和感に悩む日々でした。

 

 育児は楽しい。我が子も可愛い。でもなんか変な感じがして、何かがうまくいっていないような焦燥感。

三歳時健診でも引っ掛かり、療育に通いながら幼稚園に行き始め、小学校入学までになんとか普通級に馴染めるレベルに引き上げたいと、気持ちはいつも何かに追われ焦っていた気がします。

 

今考えると、主人には可哀相なことをしているかもと思います。主婦として衣食はもちろんケアしていますが、結局息子に掛かりきりで疲れ果て、パートナーとしてはあまりやさしくない自覚があります(笑)。(「こうやってボクの人生はみんなに冷たくされて何もいいことないまま終わっていくんだよな~」とたまに拗ねていますが、意外に本音かも。まぁ、私は主人のママじゃないので取り合いませんが(笑))

 

これにもし兄弟ができたら・・・?ますます主人はへそを曲げることでしょう。。。今でさえ私を息子と取り合っている節があるのに。息子も一時的にでしょうが、自分の意思を読み取れるのはママだけだと思っているので、庇護者を取られたと混乱するのが予想できます。それも成長の糧であるとはわかっているのですが、当時の私にはそんなややこしい事態を乗り越える余力がありませんでした。

 

息子が時々「うちには赤ちゃん来ないの?」とか「僕も妹がいたらいいのにな~」と言うことがあり、内心ドキッとしながらも「赤ちゃんは自分じゃ何もできないからママは赤ちゃんのお世話にかかりきりになるよ、そしたら今みたいに一緒に遊んだり好きな時に公園行ったりできなくなるけどいいの?」と言うと「やっぱり今のままがいいね」と納得していて、私も内心ホッとしたりしていました。

 

息子に何かしら障害があるかもと疑いが強くなるにつれ、次の子がもっと重い障害を持って産まれたら?という不安があったことは否めません。自分の年齢も高齢出産といわれる年になり、その思いはますます強くなりました。

もっと言えば、次の子に障害がなくても、その子が成人後、兄への責任を背負わされたと感じたりはしないか、逆に私自身が、障害のある子とない子、本当に分け隔てなく接し育てられるのだろうか、考えれば考えるほど悪い予想ばかりが頭をよぎり、つまりは私自身のキャパシティーオーバーだったのです。

そんな悩める母の元には神様も二人目はお授けにならなかった。

でも、この子が私達の元に授かったということ。その意味を考えながら、焦らず大切に育てていきたいと思うのです。

4月が終わって

少しネガティブな内容で4月の記事が終わってしまいましたが、4月が終わってみて。

 

支援級にしてよかった、というのが親としての感想です。

お勉強面では、正直言って普通級とは全く違ってしまい、支援級独自のカリキュラムで、書く学習は漢字と計算問題が主体になっており、国語では詩を読んだり日記を書いたり、その中で社会科や理科的な内容も気づかせる(春の雑草の詩など)、といった総合的学習になっています。

そのため継続して取り続けている学習教材も、学校とは全く別の世界のもの、という感じになってしまって、やろうと誘っても嫌がるようになってきてしまいました。

できれば理科、社会だけでも学習教材でやらせたい気持ちはありますが、自分と関係ない(例えば古楽なんて全然興味ないのに、ネウマ譜とその装飾法について一年間勉強しましょう!とか言われたら大人だって嫌ですよね・・・)と本人が思っている限りは難しい。

実生活の中で、関係あるものを見つけたら素早く理科・社会的知識として教える。これが本当の意味で生きた教育なわけですし、親もアンテナを張ってその機会を日常生活の中で逃さぬよう努力中です。

 

驚いたのはたった1ヶ月弱で何事にも積極的になってきたこと。何かに気がつくだけでなくそれに行動が伴うようになってきたのは、自信が出てきたことの表れかなと思います。

例えば先日も、庭の草がのびてる!と叫ぶので「急に暖かくなったからね、困っちゃう。草取りしてくれるかなぁ?」と冗談半分言ったところ、「うん、わかった!」と一人で頑張って草むしりを始め、私が合流するまでにかなりの量を取ってくれていて驚かされました。1~2年生の頃はすぐ飽きてしまい、私達の刈った草を袋に入れる程度しか役に立てなかったのに。もちろんしっかり誉めたところ、嬉しかったのか先日お泊まりに行ったおばあちゃん宅でも草むしりのお手伝いを買って出たということでした。

 

また、私自身の健康不安を感じる出来事があり、幸い検査結果は問題なしでホッと胸を撫で下ろしたのですが、結果を待つ一週間ひたすら考えたのは、主人といまいち意志疎通のできない息子との関係(息子も伝える力に欠け、主人も読み取る力に欠けるのです・・・)。

普通級のままだったら不安しかなかったけれど、支援の道を選択した今は明らかに不安が軽減されました。少なくともこの子を見守ってくれる先生方がいて、行政支援も普通級の父子家庭より手厚く受けられます(心配性なので最悪の事をすぐ考えてしまう私です)。

祖父母もこの子を可愛がって下さっているし、私いなくても大丈夫かも!という結論に至りました(極論です)。

 

私がいなくなったらこの子どうなるんだろう、という悲壮感が常につきまとっていた1~2年生時とは、私自身の気持ちが明らかに変わってきました。息子の成長を素直に信じられる気持ちになってきたのです。

 

この保護者である私自身の内面の変化こそが、支援級を選んで良かった一番のことではないかと感じています。

子供たちの心ない言葉

いずれあるだろうとは思っていましたが、支援級在籍であることからどういう言葉を投げかけられるのか、2週間にしてさっそく親の私も目の当たりにすることに。

 

近くの食料品店にて、息子と同い年くらいの女の子に「あ、△△君だ。お父さん3年A組の子」と声をかけられ、知らない顔なのでとりあえず「こんにちは♪」とその子と同行のお父さんにご挨拶、お父さんも「こんにちは」と返して下さった次の瞬間、

「○○(支援クラスの名称)の子なんだよ」「○○の子に会っちゃうなんて~」「あの子○○だよ」

と明らかに悪意のある口調で連呼し始めたのです。正直、背中に水を浴びせられたような思いでした。ああ、息子はこういう言葉を突然向けられるようになって、だから交流クラスにあまり行きたがらないのかなとも。

 

3月までは普通級にいたからそういう差別はもちろん無かった、それが突然4月から変わってしまった。息子自身は3月までと何ら変わることはないのに。

私としては交流クラスにも積極的に行って、今までのお友達ともつながってくれるといいなどと思い、3年A組は広いからいいと本人が言っていたこともあり、休み時間など遊びに行くことを勧めたりしていましたが、「クラス替えしちゃったしね~」と言って行きたがらなかった息子。

現実はそんなに甘くないことを思い知りました。同時に8才の息子がそんな中で頑張っているのだなぁとも。

 

目の前でそれを連呼する女の子の近くにいるのはさすがにいたたまれず、会釈して離れようとした私に、その時息子がひそひそ声で言いました。「お母さん、聞こえなかったことにして」と。

 

なぜあの時息子がそんな言葉を囁いたのかはわかりません。私もどう反応したらいいのか咄嗟に浮かばず、ただ曖昧にうなずいただけでしたが、息子はすぐ笑顔に戻って歩き出し、息子のその言葉で「○○」に含まれる悪意がわかったらしいお父さんが、まだ言い募っていた女の子の頭をぺしっと叩いたような音が後ろでしていました。(そういう意味では何とも絶妙な息子の “ひそひそ声” でした(笑))

 

ああいう時、自分が親ならどう話すだろう。差別はいけないことだよ?うーん、あまりしっくり来ません。だって今まで通り普通級で紛れて過ごしていればそもそも差別されることもなかった。そう考えればあの子とうちの子と一体何が違うのでしょう。

色んな人がいていいんだよ?みんな違って当たり前。でもそこまでの話に持っていくのは大変です。

私もきっとあのお父さんのように、とりあえず黙らせるために頭をぺしっとするくらいがせいぜいだったかも。

親も一緒になってあれこれ言うような人でなくて良かった、というのが素直な気持ちです。

 

あの時の息子のささやきは、私を助けたかったのかなとも思います。お母さん、聞こえなかったことにして。気にしないで行こう、と。

未だに支援級という選択が本当に良かったのか、些細なことで気持ちが揺れてしまう私より、よっぽど息子の方がしっかり現実に対処できているかもしれません。

 

支援級を選んだことで辛い現実もやって来る。

けれども、支援級で仲間ができて、日々自分のことを肯定しながら導いて下さる良い先生方にめぐまれて、確実に息子は真の意味で強くなっている。

そんな気がしました。

3年生のスタート

支援級での3年生のスタートです。

親も子もわからないことだらけ、とにかく先生方を信じてお任せしようと決めて送り出しました。

 

始業式の次の日から音楽と図工があったのには驚きました(一年生以外)。しかし国語と算数は4日目にしてまだ始まらず。理科と社会はありません。3年生の教科書ももらっていません。

国語と算数は普通級と同じように始まるのかとなんとなく考えていたので、やはり「お勉強」面はかなり違ってしまうなぁという感じです。基本のみを確実に、プリント等を使って効率的に(応用やディスカッションが難しい特性の子供が多いですから)行うということなのでしょう。

 

普通級へ戻るという可能性にもわずかながら期待がありましたが、ここから普通級のペースに戻すのは大変だと感じます。

そもそも普通級では授業が聞けないことが問題でこちらに転入を決めたわけですから、そういう期待を持つこと自体が矛盾してはいます。

それでも、もしもという思いと、雲や気象や日本地図に興味のある息子に、理科と社会という学問分野もあることを教えてやりたい、という思いで、2年生まで取っていた学習教材を引き続き購入し、自宅学習を行っています。

地図と方位の内容などは興味津々で自分からやりたがり、学校で机に向かってわかりにくい(うちの子にとっては)先生のお話として聞いてくるより、この方が良かったのかもしれない、と思ったりもします。

 

眠る前に急に、「○○クラス(支援級)は、16人しかいないから部屋が狭いけど、(交流クラスの)3年A組は30人もいて部屋も広い」「○○クラスは先生もたくさんいるから机の間が通りにくいんだ」と言い、「○○クラスをやめることはできる?」と言い出した息子。

真意を図りかねて、「3年A組みたいなたくさんみんながいるクラスの方がいいなぁってこと?」「○○クラスの授業は楽しくない?」と尋ねると、「A組は部屋が広くて通りやすいからいいなぁって思うんだ」でも「○○クラスの授業は楽しい」とのこと。

 

「うーん、4年生になってやっぱりA組の方がいいと思えば、また変わることはできるよ」と言うと「そっかぁ、じゃあ仕方ないから4年生まで我慢するか♪」とにっこりしながら言って、間もなく眠りにつきました。

 

ちょっとドキッとした話でしたが、単純にたくさん並んだ机の間を歩きたいだけ(そういう傾向があります。電車の線路のようで面白いのだろうと推測していますが)という可能性も大いにあり、なんとも言えません。

とにかく1年間、様子を見ていこうと思います。

本当に望むこと 。普通級から支援級の現実

支援級への転入を決めてから、最初に感じたのは、当たり前のコミュニティからもはじき出されるのだなということです。

 

あえてはじき出されると書くのは、私も以前はそれを不思議に思わなかったのに、自分がその立場になってみたら思いがけぬショックを受けたので自戒も込めて。

 

たとえばPTA。転入を決めたのが遅かったのもあり、来年度のクラス委員・係等の立候補申込書は私にも配られました。

例年、始業式かその次の日には申込書を子供に持たせることになっているのですが、そこではたと、支援級で同じような役員をしていた人はいなかったような・・・と気づきました。

 

PTA活動を嫌がる父兄も多いですが、私自身は子供の幼稚園や学校での様子を知りたいため(把握しておく必要もあり)、わりと毎年何らかの活動に参加していて、その中で知りあいも増え、結婚後この地域に来た私達夫婦にとっては、親を通じて我が子への理解をしてもらえる貴重な機会でもあったのです。

 

たぶん免除の可能性が高いと思い、前期に本部役員をしていた方にお聞きしたところ、やはりそうであるとのこと。

学級の委員・係だけでなく、子供たちの登校時の見守り当番も年2回まわってくるのですが、それも免除になると知った時、なんとも言えない疎外感と淋しさを感じました。

 

委員や係は、人数的なこともあって難しいのがわかります。父兄によっては心理的な負担もあると思います。

でも、見守り当番はクラスや学年に関係なく地域で回ってくるもので、近所の通学路の危険と思われる場所に立って、子供たちを誘導するだけの当番です。

うちの子も私が立っているのを見つけると嬉しそうに登校していきました。

 

きっと車椅子通学など、朝、時間や付き添いが必要な父兄への配慮なのだと思います。

でも、時間的にできるしやる気もあるのに、最初から一律に「免除」されてしまうのは、まるでうちの子が存在しないことにされるような淋しさを感じました。

 

近所のお母さん達には転入を決める前から話をしてあり、皆さん変わらず接してくれているので、場合によっては本部にこちらから参加を申し出ようかとも考えたり。なんだかでしゃばりな人だなと思われそうで、ものすごく気が重いけど・・・

 

学校内では子供は守られるが「区別」される。そうやって分離されてしまうと、地域でもよっぽど努力しないと(でも一体どうやれば?)コミュニティに参加して自然体で受け入れてもらうことすら難しいのだなと。自分が当事者になって初めてわかりました。

 

昨日まで当たり前だった世界が、支援ルートに変更しただけで、全く違う世界になってしまう。息子自身も昨日と今日で何一つ変わったわけではないのですけどね。

支援ルートを勧める教育関係者からはそんなことはないとよく言われますが、それはやはり奇麗事です。逆に療育関係の先生方からはそういう発言はありません。おそらくもっと厳しい現実もご存知なのでしょう。

 

それでも子供の将来を考えて、どちらの道が本当にこの子にとって幸せなのか、この子にとってより厳しい現実はどちらのルートなのか、人の10年後なんてまるで別人なのが当たり前なのに、『今』判断しなければならないから、親は悩むのです。

 

 

 

無理なのはわかっているけど、こうだったらいいのになと、転入に踏み切れずにいた時期にずっと考えていたことがあります。

 

支援級、普通級という区別はなくし、必要に応じて個別学習の部屋に行って授業を受けるが、基本的には自分のクラスにいられるようにしてくれたらいいのになと。

 

一応現在の学校教育でもそれを理想としていますが、現実には療育的な指導も手厚くしながら学習に取りこぼしの無いようにとなれば、理科・社会を学科としてやる時間は取れず、個別学習時間を6学年分の普通級の各学科時間と完全にリンクさせるのも難しく、結果やはり独自カリキュラムで「分離」するしかないのがよくわかりました。

あとは、いじめなどから確実に守れるというメリットも大きいのでしょう。

 

でも、そうした特別な配慮自体が、差別のように感じる親も多いのではないかと。

だからうちの子のような軽度障害の子供を持つ親は、支援級か普通級かで本当に悩むのです。

問題に気づかぬふりをしていれば、ちょっと変わった子、おとなしい子、でとりあえず普通級に行かせることは可能なのですから。

 

少なくとも2年生の学習で、3桁までの足し算引き算に問題はなく、かけ算はむしろ丸暗記が得意な特性上、クラスでも2~3番目に早かったと嬉しそうに報告してきた息子。

それだけ聞けば、どうして支援が必要?と思われるでしょうが、はじめに、で書いたような問題がやはりあるのです。

幼稚園時に通っていた療育で、「でもねお母さん、あるものを無いことにはできないんだからね」と言われた先生の言葉が、良い時も悪い時も深く響いてきます。

 

ここからは本当に夢物語です。あり得ない馬鹿じゃないのただの親のエゴでしょと思われるでしょうが、下記が悩んでいた時期の私の本音でした。

 

障害があってもなくても差別や区別されることなく、それぞれのできる範囲で生きられればそれだけでいいのになと。

みんな一緒に育ち、こういう人もいるんだと目の当たりにしながら、助けられることにはお互い手を貸し、ヘルパーや看護師や支援員がたくさんクラスに常駐していたっていい、必要な支援は選び、学力に差があったっていい、勉強が得意な子は上の学校でより専門的な技術や知識を学び、それを生かした仕事をする。勉強は苦手だけど他の才能がある子はそれを生かした仕事をすればいい。特に何も特殊技能がない子だって、単純作業といわれる仕事にもちゃんと需要はある。

 

それぞれの個性を認めるって、本当はそういうシンプルなものなんじゃないのかな、とひたすら考えていました。

どうして現実社会ではそれが難しくなってしまうのだろう。

おそらくそれを、これからの年月で目の当たりにすることになるのでしょうね。

転入を決めるまで②

一方私は、周囲がどんどん『理解』を示し始め、私もそれを喜ぶべきなのに、何か我が子の成長や可能性を否定されたような、おかしなジレンマに陥っていきました。

 

来年はもっと変わるかもしれない、高学年にもなれば、何をあの頃悩んでいたのかしらねと笑っているかもしれない・・・と。

今の我が子の姿ではなく、勝手に思い描いた数年先の我が子の姿ばかりを追い求める。「普通」の呪縛に取りつかれ、一番なりたくない愚かな親そのものになっていたと、今だからわかりますが、ただただ必死でした。

 

字を形よく書きなさい(空間認知力の弱い子にとって、バランスよく漢字を書くことは物凄い苦労を要するのです)、問題文をよく読みなさい、あなたはよく見ずに勝手に判断するからミスが多い(注意欠陥性と思い込みの激しさのためこれも苦労していました)。

これらの言葉を、よくないとわかっているのについきつい口調で投げ掛けることが増え、泣きながら漢字の書き取りをする息子。そのうちうまく書けないとパニックになって泣き出すように。泣くぐらいならもうやめちゃいなさい!とイライラする私。ごめんなさいがんばるから!とパニックで泣き喚きながら必死の形相で漢字ノートに向かい、また枠内からはみ出したと泣き出す息子・・・。

 

今書いていても、息子のいじらしさに涙が出ます。負のスパイラルを作ってしまったのは他ならぬこの私だったのに。

お母さんに褒められたくて、本人は必死にやっているけれど、そこまでの成果が上がらない。私も褒めはするけれど、どこかで幻想の「普通」の子供を追い求めているから、それがきっと本人にも伝わっていたことでしょう。

 

これは何か根本的におかしい、修整できるうちに方向転換が必要なのではと私も気づき始め、でも支援ルートを選んでいいのか、息子の将来の選択肢を狭めるのではないかと、踏ん切りがつかぬまま三学期も半ばを過ぎた頃、私の背中を押してくれたのは義理の母の言葉でした。

「あんまり無理させるのは○○ちゃん(孫の名)かわいそうだわ。もういいんじゃない?」と。

 

それまでも義母とはよく息子の問題について話をしており、私が仕事の時にあずかってもらったりもして我が子の成長を共に見守って下さっていました。

私以上に、息子の将来を本気で楽しみにしてくれている義母から、前向きな意見としてのその発言を聞いた時に、ああ、その方がやっぱりいいんだ、とストンと腑に落ちたのです。

 

それが三学期も残り二週間という時期。

そこからばたばたと学校側と私達夫婦で面談して転入届けを出し、本人が変わりたくないと言うので(支援級転入が嫌というよりは、よくわからないところに行かされるのが不安、というレベルだったのが救いでした)見学を兼ねた慣らしを数回、卒業式の練習などで時間の遣り繰りが大変な中、最大限見学の機会を作って下さった先生方には感謝しきりです。