この子の笑顔を大切にするために

わが子に軽度障害があることがわかってから。普通級か支援級か、うちの子“普通”じゃないの?悩みながらの子育て&親育ちの思いの記録。

変わるべきは親

支援級に転籍して初めての夏休みです。

宿題は国語と算数のプリントがそれぞれ23~4枚ずつ。日記が2日分。普通級では1プリントの問題数がもっと多く、さらに毎日の一行日記と自由研究もあるようですが、思ったよりしっかり宿題が出ていて少し驚きました。

 

相変わらず漢字は四苦八苦していますが、算数はあまり嫌がらずむしろ自分で取り組めるようになってきました。これも自分にあった取り組みの中で自信がついてきた現れなのでしょう。

 

実は4月から、私自身が息子のことをより理解したいという思いから、発達に偏りを持つ子供達の支援について学ぶ講座に通っています。

ここで学び始めてから、変わるべきは親と周囲の大人達であること、子供が変わることを望む(「普通」になって欲しいと願ってしまう。でも「普通」って一体何なのでしょうね?)親の思いこそが子供を追い詰め 、ならなくていい二次障害の一番の原因となっていることに、だんだんと気づき始めました。

・・・いえ、気づき始めたのではなく、もうずっと前から理屈ではわかっていたのですが、心から納得できる転換期をやっと迎えることができた、というのが正しいと思います。

 

その講座は大学教授によるかなり専門性の高い内容を含む講義で、修了後は資格にも繋るものです。何より「学ぶことが武器になる」という先生の言葉が、一番その時の私に納得できるものでした。

 

我が子の状態はわかる、多分一番よくわかる。困っていることや問題行動もわかる。発達障害を持つ子供達は、不思議なくらいに母親と以心伝心な部分があります。

ただ、それにどういう意味があるのか、なぜそうなってしまうのかがわからないし、どうサポートするべきかがわからない。

そこで、なんとか自分の知る「普通」の行動に無理矢理「矯正」しようとする、それが何も学習していなかった時の私でした。

でもそれでは問題の根本解決には全くならないことが、講座で学習していくうちにわかってきたのです。

 

例えば、私達の脳には、周囲の物音の中から必要な音だけピックアップして聞き取り、雑音は排除できる機能が当たり前に備わっています。

しかし、脳の仕組みの違いにより発達に偏りがある子供の中には、周囲の物音全てがワァンといっぺんに同じボリュームで飛び込んで来たり、普通は聞こえない低周波や電波のような音まで全てひろってしまうために、大人数のクラスで先生が話している言葉をいくら聞き取ろうと思っても、聞き取ることが非常に困難であるケースが多く見られるというのです。

 

・・・これは実はうちの子には思いあたる節が大いにありました。

一対一ならわかる話が大人数だとわからない。お店などで明らかに電気管やエアコンなどの電波音に反応していた時期もありましたし、大きな音にものすごく過敏で恐怖心を持つ、子供の集団が大騒ぎしている中でたまに耳をふさぐ。

 

我が子がこれだけたくさんのSOSを出していたにも関わらず、学習していなかった時期の私には、“なんで先生のお話を集中して聞けないんだろう、理解力が足りないのかしら、また耳なんかふさいで、どうしてみんなと楽しくやれないのかしら”、としか思えなかったのです。

 

物の見え方にも違いがあることを初めて知りました。一極集中のズームインレンズのような視野になりがちな子が多く、同じドアを見ていても、その子にはドアノブだけがバーンとズームアップされて見えて全体の形が捉えられない(言われて意識して見ないとそれが見えてこない)などなど。

 

これも思いあたるところだらけでした。電車大好きな我が子が幼稚園時に、1m以上の長い紙に電車の絵を描いたのですが、四角い窓をいくつか描いて、次に「Ⅱ」のような棒二本、また四角を数個、棒二本、をひたすら繰り返して描き、それから湘南新宿ラインの色と言ってオレンジと緑のラインを平筆で上と下に一直線に引いたのです。車体の枠も、車輪もありません。

 

なんじゃこりゃ?とあまりの抽象画っぷりに首をひねりましたが、本人いわく、窓と、二枚のドアが閉まった中央部であると!

絵画教室の先生に、なるほど~!そういう風に見えてるんだ!すごく面白い素敵な絵だね♪と褒められ、本人は満足気でしたが、あんなに好きな電車でも見た通りには描けないのか・・・、と内心思ってしまった私がいました。

でもむしろ、見えているそのままを息子は描いていたのでしょう。こう描くとそれらしく見える、という後付けの知識による絵ではない、貴重な絵だったのだと今ならわかります。

先生は本気で褒めて下さっていても、母親の内心のガッカリを、嫌になるほど敏感に我が子は拾い取ってしまうのです。

 

それは、目の見えない子に、頑張れば見えるはず!あなたの努力が足らない!と叱咤するのと同じくらい、無茶な要求であり本人の自己肯定感をどんどん下げていることに、その時の私は全く気付いていませんでした。

そう、変わるべきは親、私でした。