この子の笑顔を大切にするために

わが子に軽度障害があることがわかってから。普通級か支援級か、うちの子“普通”じゃないの?悩みながらの子育て&親育ちの思いの記録。

自閉症児の力加減

とある相談で、友人の幼稚園児の子供が自閉症で力の加減がわからないようで、我が子に怪我をさせられたので疎遠にしたいが冷たいだろうか?というものを目にしました。

その件では、自閉症児の親があまりにも無責任で謝罪もなく放任のようだったので、疎遠が正解だろうなぁと思いましたが、うちの子も幼稚園の年中時に、あるお友だちを強く押してしまって幼稚園から連絡をもらったことが三度ほどあり、このままだと怪我をさせることが起きる・・・と本当に悩んだのを思い出しました。

どうしてそんなことをしたのかたずねてもわからないと言うばかり、反省をしているのかどうかもよくわからず、何かのきっかけでまた同じことを繰り返してしまう。幼稚園から連絡を受け、途方にくれながら息子を叱りつつ私が涙ぐむのを見て、ママ泣かないでと息子も泣き・・・という阿鼻叫喚の日々があったのでした。

幸い怪我をさせるようなことは起きずにすんだのですが、尻もちをついたお友だちが園服を汚してしまい、慌ててその子のお母さんに謝罪とクリーニング代の申し出をしに行くと、そういうものは要らないけど、あんまり続くようだと本当に何かあったらこちらも困るんで、、、とかなり冷たく言い放たれ(でも母親なら当然の心情だと思います)、それこそ平身低頭謝り倒しました。

言葉で表現できない部分を押すなどの行動で出してしまう、力の加減がわからない、相手が転ぶのが面白い(嫌がっているのがわからない)、条件反射的に繰り返してしまう、など、色々な理由はあったのだろうと思います。しかし理由はどうあれ「人を押してはいけない」その一点で教え続け、行動矯正をしていくうちにうちの子の問題行動はおさまっていきました。

 

特に未就学時期の自閉症児に多い気がしますが、力の加減がわからない、というのは確かにあるようです。自分の身体を自分でコントロールできない問題があるため、妙に握力がなかったり、それでいて無意識の時はものすごい力で握ってしまったり。それがトラブルに結びつくことも。その時我々親がどのように対応するか、自閉症があるから仕方ないではなく、その子の人生を左右しかねない問題だと受け止めて真剣に向き合い療育訓練するかどうかが、その後の展開を変えることも多いのではないかと思います。

 

息子が3歳くらいの時に、母の扇子を壊してしまったことがありました。母が指先の練習にと思って、そーっとね、と言って触らせたにもかかわらず、無理に開こうとしたようです。当時の息子の状態なら予想のつくことだったので、最初は何故触らせたのかぐらいにしか私には思えなかったのですが、貴女が3才の頃にはあり得なかったと言われ、半分喧嘩になりました。私はかなり早熟で器用な子供でしたから、正反対な息子の現実を離れて暮らす母にわかってもらうのは難しく、定型発達児しか育ててない母にはわかりっこない、と思う反面、やはり私の訓練不足なのだろうか・・・だからこの子がこんなになってしまったんだろうか・・・と内心悩みました。

 

そしてもうすぐ一年生になる春休み、今度はてんとう虫を潰してしまう事件?が起きました。

その頃には療育にも通っており、母も息子の発達障がいを理解して接してくれていたのですが、よかれと思って渡したてんとう虫を、これも力加減がわからず握り潰してしまったよう。母がその時に驚いて声をあげてしまい、息子は潰してしまったことより母の反応に驚いていた(ように見えた)らしく、複雑な面持ちで報告してきた母に私もどう返せばいいかわからずにいました。

 

そして、3年生の時に息子がこう言いました。

「僕ね、虫は捕まえないことにしてるんだ。だって僕が触ると潰しちゃうからね」と、さみしそうな表情で。

なぁんだ、ちゃんと色々感じていたんだ、と妙な安心感があったのを覚えています。

「そっかあ、でもそれって幼稚園の頃の話でしょ?今ならきっと大丈夫だよ」と、ちょうど草をのぼっていた二星てんとうをつかまえ、手と手をあわせてふくらませた中にそっと入れてやりました。「あれ、大丈夫だ!」「でしょ。上までのぼると飛ぶよ」

 

そして今、4年生。息子はダンゴムシがお気に入りです。殺さずに上手につまんで持ち歩けることが嬉しいらしい。

「実は最近、時々ダンゴムシを道端でつかまえて学校まで持ってってるんだ。でも、教室には持ち込まないよ。学校の入り口で放してる」と少し得意そうに告白してきました。

 

力加減、いずれ必ずできるようになるはずです。ただ、していいことと悪いことはもちろん、悪気がなくてもよくないこと残酷なことという概念は、きちんとわからせてやることが大切かなと思います。

ただ虫を殺さずにつまめる、それだけで大きな喜びを得られている息子。できるのが当たり前の器用な子供だった私は、そんなこといちいち感じたこともなかった。息子の成長と彼の喜びを一緒に味合わせてもらえて、今、幸せだなぁと思います。

悩めるママたち

今日は、発達に偏りがある子供達を支援・サポートするための勉強に行っていました。

その講座で近くの席に座ったママさんとの話の中で、実はうちは去年から支援級に行かせていて、と我が子の話をしたところ、その方も今まさに「あまり無理させずに支援級に・・・」という話を(おそらく小学校側から)されていて・・・。とのこと。

 

その表情があまりにも辛そうで、ああ、一年前の私と同じかもしれない、何かお話しを聞いたり気持ちをまとめるお手伝いになれないかな、と思ったのですが。

でも3月あたまのこの時期にまだ結論が出ていないということは、支援級という選択をしたくない気持ちがお強いのだと思うし(私もそうでしたから)それを勧められる可能性が少しでもある人とはあまり話したくないかもしれないな、など色々考えているうちに講座の終了時間になり、その方も誰ともお茶したりする気は無い雰囲気でスッと帰っていってしまいました。

 

本当に私も普通級と支援級の選択で悩んでいた時期は、子供のことを話すだけで誰の前でも関係なく泣いてしまい(軽い鬱状態だったのだと思います)、誰とも話したくなかったです。両親とすら。支援級に繋がる全ての話題を拒否していたような時期もありました。どちらが本当に我が子にとって良いのかを、冷静に比べるような心の余裕なんて無かったのだなと今ではわかります。

そして日本の学校(普通級)は問題提起をするだけで、なかなか寄り添ってはくれません。個を尊重する文化の進んだ海外の小学校では、発達障がいの子供達も普通級にいながらちゃんと個別の合理的配慮がなされており、あからさまな区別という悲しい思いをさせられることなく学校で勉強していることを知りました。しかしそういう支援体制がまだ今の日本ではあまりにも遅れているから。だからママ達は、支援級という未知の世界に“追い出される”と感じ、精神的に追い詰められるのです。その時の私自身を振り返ってみても、ただ、うちの子を「普通」のカテゴリから追い出さないで!と叫んでいただけで、頭の中は思考停止していた気がします。

 

子供の発達に偏りがあったり、学校で苦労しているママたちには、とにかく学びの場を見つけて我が子の環境をより良くするにはどうしたらよいかを考え、そこで本当に理解・共感してくれて安心して話せる人を見つけてもらえるといいなと思います。

孤立しないで、我が子をあたたかく見守れる余裕をママたち自身が失ってしまわないように。同じ思いで我が子のために勉強している人達が、探せば意外にたくさんいますよ。

僕がママの子どもで良かった?

「ねぇ、ママは僕がママの子どもで良かったなぁと思う?」昨夜突然、そう尋ねてきた息子。

 

どういうこと?と一瞬ドキッとしながらも「うん。○○がママの子どもで嬉しいよ」「どういうところが嬉しい?」「そりゃいっぱいあるよ。今こうやって一緒にお話しできるのも嬉しいし、ママ~♪ってママを呼んで、抱きついてきてくれたりするのも。可愛い○○がいてくれるだけで、ママにとってはすごく嬉しくて幸せなんだよ」

見る間に満面の笑みになり、嬉しそうに抱きついてきた息子ですが、

「つらいこともあったと思うけど、僕がママの子どもで、よかったこともあったんだね」と、私の腕のなかで言いました。

 

なかなか気持ちなど“見えないもの”を表現するのが苦手な我が子が、突然そんなことを口にした。

私は動揺してしまい、「つらいこと?最近○○のオナラが臭くて困ること?」とつい笑いに紛らせてしまったのですが(最近、オナラはトイレや人に気付かれない場所でするのがマナー!と注意していたところだったので(苦笑))いったい何故そんなことを突然言い出したのか。少し後で落ちついてから聞いても、うーん、なんとなく、、、とのこと。

 

定期的に通っている、医療機関に行った次の日だった影響かもしれません。

今は特に問題なく過ごせているので、その日も最近の学校での様子や、ちょっとした困りごとを本人と先生がお話ししただけだったのですが、初診の頃は私も我が子の障がいを受入れきれず、相談中に涙ぐむ瞬間もあった気がします。

息子には気付かれぬよう頑張っていたつもりですが、人の表情や思惑を読み取るのが難しい特性にもかかわらず、私とは恐ろしいほどに以心伝心な部分がある息子。無意識の記憶に刷り込まれていたのかも。

自分のせいでママが泣いていた。もしそういう記憶になっているなら、本当に可哀相なことをしたと思います。

 

その息子は、普通級に戻ろうかなと冬休み前に言い出したり、やっぱり支援級のままがいいと今は言っていたり。

普通級・支援級という分離教育がまだまだ日本では当たり前で、選択を余儀無くされてしまう現状、今の我が子には支援級での教育がよりメリットが大きいと感じるので、現状維持で4年生に進級する予定です。

 

学習のカリキュラムが普通級とは異なるため成績表も異なり、中学も支援級だと、普通高校の受験は難しいこと。校外学習や調理などの実習が多い分、学習は基本中心で応用までいかないこと。理科と社会を学科としてはやらないこと。

小学校により差はあると思いますが、支援級進級のデメリットは上のような点になります。勉強はこの1年ではっきり言って普通級に比べて大きく遅れています。

しかし1~2年生の勉強も、学校ではほとんど何も聞いてこないまま帰って来るのを私が全て家でやり直し、宿題もつきっきりでなければ一人では出来なかった。そんな大人数クラスでは自力で学ぶことが難しかった子が、そのまま普通級で3年生に上がって果たして今より進んでいるだろうか?少なくとも、帰ったらさっさと宿題を一人でこなし、家での補習無しで授業の内容は理解している現在、むしろ勉強面は大きく進歩したと言えます。

息子の小学校の支援級ではさらに、個人チャートで勉強の進み具合をきちんと管理し、個別学習時間にできるまで繰り返し学習させ、単元の取りこぼしがないようにしてくれるという手厚さ。昔の支援級の概念とは大きく違う、個別支援に特化したクラスであることは確かです。

 

しかも「書く」方の識字障害も疑われる息子には、何度書いても形が定まらない漢字を小一時間も泣きながら書き続けるような宿題から解放され、やりたいことをひたすらやり続けられる時間が手に入りました。

好きなことに没頭する時の集中力はすさまじく、関東周辺の路線図、近隣のバス路線図を覚え、さらにそれをスケッチブックや自由画帳にひたすら書き、路線図や自作のお話の絵を描いたお絵描き帳はゆうに100冊を超えました。

指先が不器用で細かい動きができず、私がピアノを教えようとしても逃げ出してしまった子が、最近キーボードにひたすら取り組んでいると思ったら、探り弾きながらもお気に入りの曲を3曲、覚えてピアノで弾いて聞かせてくれたのです。恥ずかしそうな得意そうな顔をしていたのが忘れられません。

パパにひきずられてなんとなく好きだった鉄道は最近マニアの域に達し始め、筋金入りの鉄道マニアのパパもたまに舌を巻くほど。音楽を記憶する能力は幼児期からちょっと特別だったのですが、駅の珍しい発車メロディーを覚えまくるというなんだか不思議な方向に発揮されたりもしています(笑)

 

ママの子どもでいてくれてありがとう。貴方の成長を見守ることができて、本当に楽しい毎日です。わりと何でも小器用にできてしまった私とは、全く違う成長過程を見せてくれる息子。息子が私を育ててくれているのは間違いありません。

友達付き合い

支援級に編入して、一番変わったのは(そして現在進行形で変わり続けているのは)放課後のお友達付き合いです。

 

運動能力、理解力、コミュニケーション力ともに遅れがちな息子は、近所のお兄さんお姉さんがたまに道で遊んでいても、ボール遊びやルールのある遊びについていけず、家の近くに同年代の子供もいない環境でした。

毎日私と公園へ行き、一人でブランコやすべり台で遊び、たまに未就学の小さい子と一緒になって遊んでいる姿を見ていると、友達と遊びたいんだなぁと感じましたが、つまり2~3才下の子でないと遊びのレベルが合わないということなのか、と愕然としたものです(検査でも2~3年の遅れを指摘されていました)。

 

1年生の最初はまだ周囲も、放課後誘いあってまでは遊んでないよ、と聞いてちょっと安心していたのですが、気付けば皆お友達と誘いあって遊ぶのが普通になっていました。

2年生になった息子に「一緒に遊びたい、誘いたい子はいないの?」「最初はママが連絡してあげるよ?」とまで促しても、遊びたい子はいない、ママとすべり台がいい、と頑なに言い張り、公園で同級生とたまたま合って仲間にいれてもらったこともありましたが、明らかにコミュニケーションが取れていない。1対1なら会話のキャッチボールができるのに、3人以上の集団に入ると、何故か一方的にその場に関係ない話をバーッとしゃべって相手をシャットアウトしてしまい、相手の話が聞けなくなるようなのです。追いかけっこのような単純な遊びなら混じれるのですが、2年生にもなると会話の中でルールや設定が決まってその中で遊ぶようになる。息子はみんなについていけず、本人もそれがわかるようですぐ離脱。次回からその公園を避けて遠方の公園に行きたがるようになったりしていました。

 

その頃の私の思い。『今はまだすべり台で遊んでいても違和感は少ない。でも4年生や5年生になってもこのまま一人遊びしかしたがらず、公園ですべり台をしたがったら?自分で遊びを生み出す力がないから遊具がないと遊べない。でも高学年男子が、一人で遊んで奇異の目で見られない場所なんてあるの?そういう子どもが家に閉じこもりがちになるのがよくわかる。軽い障がいのある子が放課後過ごす場所って、なんて少ないんだろう』と。

 

主人からは、私が公園に着いていくから一人で遊びに行けないままなんじゃないのか、と暗に責められるようなこともありました。

しかし、私が外へ連れ出さなければ家で一人遊びしかしない。本人は別に外に行きたいわけでもないのですから。一人遊びも放っておけばひたすら電車のおもちゃの車輪を動かしドアを開け閉めして・・・・の自閉的な繰り返し遊びで本人は飽きない。いくらでも無為に時間を潰せてしまう。だからせめて身体を動かして新たな刺激を与えたくて必死で連れ出しているのに、あなたは現状がわかってないからそんなこと言えるのよ・・・!と何度喉元まで出かけたことか(笑)

 

そんな普通級1、2年生の頃とは180度違う放課後の光景が、現在息子の周りでは繰り広げられています。

習いごとの無い日は、1年生から6年生までの支援級・たまに普通級のお友達も一緒に我が家に遊びに来て、時に思い通りにならず癇癪を起こしては仲間に入れてもらえないことを学び、時に自分勝手な行動をして高学年の子に怒られ、でもそれぞれ特性があるので、みんなが同じじゃないのが当たり前で自然に許し合えているやさしい子たち。気付けば息子も、家で私と話すのと同じようにお友達とも話せるようになっていたのです!確実にコミュニケーション力が形成されていくのを目の当たりにしている毎日です。

 

以前の記事で、普通級に居続けるメリットとして書いていたことがこちらでした。

『一人っ子で家の周辺にも同年代が少ない環境の中、大人数の刺激は魅力で、実際クラスメートに影響されての変化も見られるので、みんなにつられての成長を期待したい。』

しかし、放課後の変化はそれをはるかに超える効果をもたらしました。多様な子のいる、そしてやはり少し“定型発達”の子と遊ぶのが難しい子が多い支援級だからこその、大きなメリットだと感じます。

変わるべきは親

支援級に転籍して初めての夏休みです。

宿題は国語と算数のプリントがそれぞれ23~4枚ずつ。日記が2日分。普通級では1プリントの問題数がもっと多く、さらに毎日の一行日記と自由研究もあるようですが、思ったよりしっかり宿題が出ていて少し驚きました。

 

相変わらず漢字は四苦八苦していますが、算数はあまり嫌がらずむしろ自分で取り組めるようになってきました。これも自分にあった取り組みの中で自信がついてきた現れなのでしょう。

 

実は4月から、私自身が息子のことをより理解したいという思いから、発達に偏りを持つ子供達の支援について学ぶ講座に通っています。

ここで学び始めてから、変わるべきは親と周囲の大人達であること、子供が変わることを望む(「普通」になって欲しいと願ってしまう。でも「普通」って一体何なのでしょうね?)親の思いこそが子供を追い詰め 、ならなくていい二次障害の一番の原因となっていることに、だんだんと気づき始めました。

・・・いえ、気づき始めたのではなく、もうずっと前から理屈ではわかっていたのですが、心から納得できる転換期をやっと迎えることができた、というのが正しいと思います。

 

その講座は大学教授によるかなり専門性の高い内容を含む講義で、修了後は資格にも繋るものです。何より「学ぶことが武器になる」という先生の言葉が、一番その時の私に納得できるものでした。

 

我が子の状態はわかる、多分一番よくわかる。困っていることや問題行動もわかる。発達障害を持つ子供達は、不思議なくらいに母親と以心伝心な部分があります。

ただ、それにどういう意味があるのか、なぜそうなってしまうのかがわからないし、どうサポートするべきかがわからない。

そこで、なんとか自分の知る「普通」の行動に無理矢理「矯正」しようとする、それが何も学習していなかった時の私でした。

でもそれでは問題の根本解決には全くならないことが、講座で学習していくうちにわかってきたのです。

 

例えば、私達の脳には、周囲の物音の中から必要な音だけピックアップして聞き取り、雑音は排除できる機能が当たり前に備わっています。

しかし、脳の仕組みの違いにより発達に偏りがある子供の中には、周囲の物音全てがワァンといっぺんに同じボリュームで飛び込んで来たり、普通は聞こえない低周波や電波のような音まで全てひろってしまうために、大人数のクラスで先生が話している言葉をいくら聞き取ろうと思っても、聞き取ることが非常に困難であるケースが多く見られるというのです。

 

・・・これは実はうちの子には思いあたる節が大いにありました。

一対一ならわかる話が大人数の中だとわからない。お店などで明らかに電気管やエアコンなどの電波音に反応していた時期もありましたし、大きな音にものすごく過敏で恐怖心を持つ、子供の集団が大騒ぎしている中でたまに耳をふさぐことも。

 

我が子がこれだけたくさんのSOSを出していたにも関わらず、学習していなかった時期の私には、“なんで先生のお話を集中して聞けないんだろう、理解力が足りないのかしら、また耳なんかふさいで、どうしてみんなと楽しくやれないのかしら”、としか思えなかったのです。

 

物の見え方にも違いがあることを初めて知りました。一極集中のズームインレンズのような視野になりがちな子が多く、同じドアを見ていても、その子にはドアノブだけがバーンとズームアップされて見えて全体の形が捉えられない(言われて意識して見ないとそれが見えてこない)などなど。

 

これも思いあたるところだらけでした。電車大好きな我が子が幼稚園時に、1m以上の長い紙に電車の絵を描いたのですが、四角い窓をいくつか描いて、次に「Ⅱ」のような棒二本、また四角を数個、棒二本、をひたすら繰り返して描き、それから湘南新宿ラインの色と言ってオレンジと緑のラインを平筆で上と下に一直線に引いたのです。車体の枠も、車輪もありません。

 

なんじゃこりゃ?とあまりの抽象画っぷりに首をひねりましたが、本人いわく、窓と、二枚のドアが閉まった中央部であると!

絵画教室の先生に、なるほど~!そういう風に見えてるんだ!すごく面白い素敵な絵だね♪と褒められ、本人は満足気でしたが、あんなに好きな電車でも見た通りには描けないのか・・・、と内心思ってしまった私がいました。

でもむしろ、見えているそのままを息子は描いていたのでしょう。こう描くとそれらしく見える、という後付けの知識による絵ではない、貴重な絵だったのだと今ならわかります。

先生は本気で褒めて下さっていても、母親の内心のガッカリを、嫌になるほど敏感に我が子は拾い取ってしまうのです。

 

それは、目の見えない子に、頑張れば見えるはず!あなたの努力が足らない!と叱咤するのと同じくらい、無茶な要求であり本人の自己肯定感をどんどん下げていることに、その時の私は全く気付いていませんでした。

そう、変わるべきは親、私でした。

ひとりっ子であること

息子はひとりっ子です。すぐに二人目が授からなかったのもありますが、ある意味産まない選択をしたのに近い状況です。

 

結婚後半年過ぎに息子の妊娠がわかった時、主人がひどく精神的に不安定になりました。確かに二人きりでいられればそれでいいなどと夢見がちなことを言う人でしたが、てっきり喜んでくれると思っていた私は、ショックというより驚きと疑問だらけでした。小さい子供は好きそうなのに、なぜ??と。

 

後からわかりましたが、彼自身が生きにくさを感じるタイプで子供時代にもあまり楽しい思い出がなく、そんな辛い思いをさせるなら子供はなくていいと思っていたところへ、経済的な責任や自分が親になることへの戸惑いなどが一気に押し寄せたため、重圧に押し潰されたようです。

 

お腹の子と主人のメンタルの両方を心配しながら仕事(私の専門の音楽の仕事で楽しかったのですが)もする妊娠中の日々。産まれてみれば慣れない育児に疲れ果て、今考えると母親の勘で我が子に気になる点も出てきていたのでしょう、私自身に二人目を望む気持ちが全く湧かなかったのです。

 

障害があるならなおさら、助け合える兄弟が必要では?という考え方もあると思います。子育て中も「兄弟がいたらもっと違ったかもなぁ」と思うことが多々あります。

でも、私と主人それぞれの精神状態を考えあわせると、うちは息子一人でよかったのだ、と思うのです。

 

息子が最初に発達の遅れを疑われたのは、一歳半健診の時でした。その時は一ヶ月後の観察期間に問題なしとなったのですが、やっぱり何かある?という不安が強かった気がします。

その前から各種アレルギーがひどく、近場の小児科ではさじを投げられてしまい電車で国立病院に通う日々でした。生後四ヶ月からずっと小児アトピーとの闘い、離乳食が始まれば食物アレルギーも始まり、除去食と検査、減感作療法と検査、時期を見ての負荷試験の繰り返し。

そんな中、発達のめやすとして言われる首座り、寝がえり、ハイハイの時期や後追いの有無、全てが少しずつ遅いのに気付きました。

アレルギーに気を取られてやや過保護気味だった気もするし、初めての子育てで私の要領も悪かったのですが、何だか全てが思ってたのと違うなぁ、うまくいってないなぁ、みんなこんなものなのかなぁ?と、今考えると育児に悩むというよりは違和感に悩む日々でした。

 

 育児は楽しい。我が子も可愛い。でもなんか変な感じがして、何かがうまくいっていないような焦燥感。

三歳時健診でも引っ掛かり、療育に通いながら幼稚園に行き始め、小学校入学までになんとか普通級に馴染めるレベルに引き上げたいと、気持ちはいつも何かに追われ焦っていた気がします。

 

今考えると、主人には可哀相なことをしているかもと思います。主婦として衣食はもちろんケアしていますが、結局息子に掛かりきりで疲れ果て、パートナーとしてはあまりやさしくない自覚があります(笑)。(「こうやってボクの人生はみんなに冷たくされて何もいいことないまま終わっていくんだよな~」とたまに拗ねていますが、意外に本音かも。まぁ、私は主人のママじゃないので取り合いませんが(笑))

 

これにもし兄弟ができたら・・・?ますます主人はへそを曲げることでしょう。。。今でさえ私を息子と取り合っている節があるのに。息子も一時的にでしょうが、自分の意思を読み取れるのはママだけだと思っているので、庇護者を取られたと混乱するのが予想できます。それも成長の糧であるとはわかっているのですが、当時の私にはそんなややこしい事態を乗り越える余力がありませんでした。

 

息子が時々「うちには赤ちゃん来ないの?」とか「僕も妹がいたらいいのにな~」と言うことがあり、内心ドキッとしながらも「赤ちゃんは自分じゃ何もできないからママは赤ちゃんのお世話にかかりきりになるよ、そしたら今みたいに一緒に遊んだり好きな時に公園行ったりできなくなるけどいいの?」と言うと「やっぱり今のままがいいね」と納得していて、私も内心ホッとしたりしていました。

 

息子に何かしら障害があるかもと疑いが強くなるにつれ、次の子がもっと重い障害を持って産まれたら?という不安があったことは否めません。自分の年齢も高齢出産といわれる年になり、その思いはますます強くなりました。

もっと言えば、次の子に障害がなくても、その子が成人後、兄への責任を背負わされたと感じたりはしないか、逆に私自身が、障害のある子とない子、本当に分け隔てなく接し育てられるのだろうか、考えれば考えるほど悪い予想ばかりが頭をよぎり、つまりは私自身のキャパシティーオーバーだったのです。

そんな悩める母の元には神様も二人目はお授けにならなかった。

でも、この子が私達の元に授かったということ。その意味を考えながら、焦らず大切に育てていきたいと思うのです。

4月が終わって

少しネガティブな内容で4月の記事が終わってしまいましたが、4月が終わってみて。

 

支援級にしてよかった、というのが親としての感想です。

お勉強面では、正直言って普通級とは全く違ってしまい、支援級独自のカリキュラムで、書く学習は漢字と計算問題が主体になっており、国語では詩を読んだり日記を書いたり、その中で社会科や理科的な内容も気づかせる(春の雑草の詩など)、といった総合的学習になっています。

そのため継続して取り続けている学習教材も、学校とは全く別の世界のもの、という感じになってしまって、やろうと誘っても嫌がるようになってきてしまいました。

できれば理科、社会だけでも学習教材でやらせたい気持ちはありますが、自分と関係ない(例えば古楽なんて全然興味ないのに、ネウマ譜とその装飾法について一年間勉強しましょう!とか言われたら大人だって嫌ですよね・・・)と本人が思っている限りは難しい。

実生活の中で、関係あるものを見つけたら素早く理科・社会的知識として教える。これが本当の意味で生きた教育なわけですし、親もアンテナを張ってその機会を日常生活の中で逃さぬよう努力中です。

 

驚いたのはたった1ヶ月弱で何事にも積極的になってきたこと。何かに気がつくだけでなくそれに行動が伴うようになってきたのは、自信が出てきたことの表れかなと思います。

例えば先日も、庭の草がのびてる!と叫ぶので「急に暖かくなったからね、困っちゃう。草取りしてくれるかなぁ?」と冗談半分言ったところ、「うん、わかった!」と一人で頑張って草むしりを始め、私が合流するまでにかなりの量を取ってくれていて驚かされました。1~2年生の頃はすぐ飽きてしまい、私達の刈った草を袋に入れる程度しか役に立てなかったのに。もちろんしっかり誉めたところ、嬉しかったのか先日お泊まりに行ったおばあちゃん宅でも草むしりのお手伝いを買って出たということでした。

 

また、私自身の健康不安を感じる出来事があり、幸い検査結果は問題なしでホッと胸を撫で下ろしたのですが、結果を待つ一週間ひたすら考えたのは、主人といまいち意志疎通のできない息子との関係(息子も伝える力に欠け、主人も読み取る力に欠けるのです・・・)。

普通級のままだったら不安しかなかったけれど、支援の道を選択した今は明らかに不安が軽減されました。少なくともこの子を見守ってくれる先生方がいて、行政支援も普通級の父子家庭より手厚く受けられます(心配性なので最悪の事をすぐ考えてしまう私です)。

祖父母もこの子を可愛がって下さっているし、私いなくても大丈夫かも!という結論に至りました(極論です)。

 

私がいなくなったらこの子どうなるんだろう、という悲壮感が常につきまとっていた1~2年生時とは、私自身の気持ちが明らかに変わってきました。息子の成長を素直に信じられる気持ちになってきたのです。

 

この保護者である私自身の内面の変化こそが、支援級を選んで良かった一番のことではないかと感じています。